前回のコラム『新聞って、いる?』に続いて、「テレビって、いる?」を考えてみたいのだが、基本的にはいらないのである......。
Open Image Modal
イメージ写真
flashfilm via Getty Images

僕がカナダの牧場でカウボーイをしていた頃、アメリカのケンタッキー州から遊びに来ていたニールというおじさんがいた。彼は企業の工場を設計・建設する会社を経営していて、大金持ちだった。

「今度、わたしのうちに遊びに来なさい」と言うので、僕はカウボーイ滞在を終えて、アメリカへ取材旅行に出る前に、本当に訪ねてみた。

門からドライブウェイを走って、やっと家屋が見えてくる、映画に出てくるようなお屋敷だった。大きな池の前にある大邸宅は、彼の趣味で埋め尽くされているような観があった。

暖炉があって、バーカウンターの奥には数々のバーボンボトルが並び、壁にはハンティングで仕留めた鹿の頭が飾ってあり、床には熊の毛皮。フライフィッシングの毛針を自作するための部屋があり、地下室には数々の釣竿と、ボウガンやライフルが陳列されていて、南アフリカで釣ったという大魚のはく製があった。

道路を渡って、少し丘を上がった別邸(彼の敷地内だ)は、自身の手によって建築中で、当時はまだ骨組みだけができている状態だった。

「何年もかけて少しずつ完成させる。そうしたら、趣味のモノをすべてここへ移すんだ」

と、すでに60を越えたニールは言ったが、「一体いくつまで生きるつもりなんだ(笑)」と、僕は苦笑いしたくなる思いだった。

経営する会社の仕事をバリバリやって、アフターファイブないし週末には釣りやハンティングを散々やって、別邸の工事を独力で進め、休暇には二千キロ以上を運転してカナダまで行く。「なんてエネルギーにあふれた人なんだ」と感心する僕に、彼が言った言葉をよく覚えている。

「わたしは、テレビは観ない」

それだけのことを成すには、テレビなんか見ていてはダメなんだろうなー、と僕は漠然と思ったが、その一言はやけに鮮明に心に残っている。

僕個人はいまでもテレビは観るのだが、その時間は確実に減ったし、観てもNHK BSかケーブルテレビがほとんどだ。民放の番組を観ることはおよそなくなってしまった。

前回のコラム『新聞って、いる?』に続いて、「テレビって、いる?」を考えてみたいのだが、基本的にはいらないのである......。いきなり結論を書いてしまった。

あんまり観ていないとはいえ、朝テレビを点けると、情報番組をやっている。「あ、こんなん観てたらバカになる」とすぐにわかる。いや、視聴者はバカという前提で作られているのがわかるためイライラするというのが正確な表現か。

常に明るく楽しくなくてはいけないという様式が、もはや強迫観念となって制作者の頭の中に巣食っているように思われてならない。それがしんどい。人間、いつもいつも明るく楽しい気持ちでいたいわけではないのだ。

もっと淡々とできないのだろうか、と僕などは思ってしまい、つい穏やかなNHK BSに移ってしまう。

番組の時間帯にかかわらず、CMをまたぐクイズの出題も、大げさに驚く芸能人のワイプも、タレントのキャスターやコメンテイターの当たり障りのない発言も、芸能人がお金をもらって遊んでさらに賞金をもらう様も、一度売れた人を使い尽くすまで出し続けるのも、テレビの人が考える手法や演出のすべてが、僕には合わない。

なにをするわけでもない、タレントという日本独特の人たちの存在は不可解だ。

ほぼズームイン朝(古いw)のスタジオのうしろでピースする人や、アマタツの横でテレビに映ろうとする人に毛が生えたくらいの存在ではないか。

9時ぴったりではなくて、8時54分に番組が始まるとか、前の番組と次の番組がつなげてあるとか、そういう施策はすべてアメリカのテレビ局の番組作りから取り入れられたものなのに、肝心な中身の質がついてこないのは、予算規模の問題と片付けていいわけはないだろう。

僕が年を取ってしまったのだろうか、と思うけどそうではなくて(いや、今月43になるので年を取ったことは認めるが)、本当に年を取った人たちはテレビを観ているようだ。

業界の人に訊いてみたところ、興味深いことを耳にした。

テレビ業界といえば視聴率至上主義なのかと思いきや、

「ここ最近認識が変わりつつあり『いくら世帯視聴率を取っても意味がない!』という考えがようやく徐々にですが浸透しつつあります」

という。

世帯視聴率というのは、一家にあるテレビがどの番組を映しているか、という本来は大雑把な指標なのだが、個人に分解してみると結局のところ「F3、M3層」、つまり五十代以上のおっちゃんおばちゃんと、おじいちゃんおばあちゃんが多く観ているということになる。

よって、「数字取ってるのにCM枠が売れないという悲惨な状況」が顕在化しつつある、というのである。

広告の仕組みに馴染みがうすい人にわかりやすく説明すると、そういう枠で流されるのは、健康食品や保険系やハズキルーペなどということになる。大スポンサーである自動車や化粧品やIT系や通信サービスの企業にCM枠がなかなか売れないということだ。

興味深いことに、視聴率は(以前ほど)取れていなくても、若年層をターゲットにした一部のトガッたバラエティー番組の枠は、売出し即完売するそうだ。

つまり、テレビが家族みんなで観るものでなくなって久しいが、ますます「テレビのラジオ化」「雑誌化」(クラスター化)が進んでいるのではないだろうか。広い視聴を狙うより、狭くても深いつながり、そのジャンルやその番組しか観ない熱心なファンをつかむことの方に生き残りの策があるようにも思える。

前出のニールのような「わたしは、テレビは観ない」と言う人に、「あ、でも、これだけは観る」と言わせる番組がそれぞれの人にあるという状況。この顧客との関係を、ネットやリアルで縦に横に広げる。テレビ業界人というのは頭脳とエネルギーの集団(半分本気で半分皮肉)だから、既にやってるのかもしらんけど。

かつても、そして今でも辛うじて、最強の影響力を持ったメディアの王であり、エンタメの枢要であるはずのテレビ局であるが、さまざまな社会的圧力や自主規制により、いまやインターネット番組の方が過激な表現や豪華な仕掛けができたり、そのパワーバランスは変容しようとしている。それもラジオ化・雑誌化の一面だろう。

僕個人としては、ふつうのトーク番組が見たい。人と人が、あたかもラジオのように、なんのヒネリもなく話す番組。定型のコーナーも、お飾りのアシスタントもなく、酒でも飲んでじっくり話す番組。

懐古趣味で申し訳ないけど、村上龍の『Ryu's Bar 気ままにいい夜』や『たかじんnoばぁ~』みたいに、まぁバーばっかでアホみたいだけど、ただ話す。淡々と話す。時に大笑いも起きるが、笑いだけが目的ではない。

2017年に終了したサンテレビの『カツヤマサヒコSHOW』は、関西在住の僕でもテレビ視聴できないくらいのドローカル番組だったのだが、ゲストが絶妙で、PCで一度観てしまうと結構引き込まれるものがあった。勝谷氏個人の、センスと知的好奇心の賜物だ。

作家とか学者とかミュージシャンとか、いわゆる芸能界と関係のうすい、中でもちゃんとした言葉を持つ人を招いて、時には沈黙も、当惑も、不穏も、口論もありで放送する。そういう作り物でない「本当のこと」ならネットでも拡散するだろう。

本やアルバムの宣伝は少し入ってもいい。それがないと「ちゃんとした言葉を持つ人たち」は少額のギャラでは出演してくれない。顔と名前を出して自分の言葉で話すということにはリスクが伴うからだ。

だけど、宣伝したいことがある芸能人ばかりの出演はいったんナシで、そういったもう世間にバレバレなテレビ局と芸能事務所のバーターは興醒めなので排除。『情熱大陸』みたいになっちゃうから。

まぁ僕も、水着姿見たさに菜々緒の回は観たけど反省してるよ。オレが間違ってたよ......。

さて、誰をこの番組のホストにしたらいいか、無関係なのに考えたくなるでしょう。

どうだろうか。町にふつうの定食屋が少なくなったように、言葉を聞かせて、人間を見せる、ふつうの番組がなくなった。

僕はそんなのが観たいけどな。