業田良家『自虐の詩』 複雑すぎる人間の本性を4コマで描く伝説のマンガ

なぜこのマンガには、いい歳をした大人の心を強く揺さぶる力があるのだろう。
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業田良家『自虐の詩』(竹書房)

お気に入りの小説やマンガが映画化されると聞くと、「やめておけばいいのに……」と思うことは少なくない。原作に対する愛着が深いほど、「汚される」という懸念が強まるからだ。

これまで、「映画化なんてムチャはよせ」と思った筆頭格は、小説ではアゴタ・クリストフの『悪童日記』、マンガでは業田良家(ごうだよしいえ)の『自虐の詩』だ。前者は劇場に足を運んで「まあ、こんなもんだよな」と達観し、「無かったこと」として処理したが、後者はどうにも見る勇気が起きず、未見のままだ。

「もうダメ」ってなる

業田の代表作『自虐の詩』は、「泣ける4コマストーリー漫画」の代名詞的存在だ。

手元の竹書房の文庫版上巻に収められたインタビューで、漫画家・内田春菊は何度読んでもラストに差し掛かると「『もうだめ』ってなっちゃって最後まで泣きっぱなし」と語っている。白状すると、私も再読するたびに「熊本さん」が出てくるあたりから「泣き笑いモード」になってしまう。しかも、これは内田もインタビューで指摘していることなのだが、年齢を重ねるごとに「泣きポイント」が増えているのだ。

なぜこのマンガには、いい歳をした大人の心を強く揺さぶる力があるのだろう。

未読の方のために、簡潔に作品の概要をまとめておこう。

主人公は内縁の夫婦である森田幸江と葉山イサオの2人。イサオは無職で、いわゆる「ヒモ」のような生活を送るどうしようもない男で、定食屋「あさひ屋」に勤める幸江のわずかな稼ぎを酒やギャンブルで浪費する。そんなイサオに、いかにも不幸と貧乏を呼び寄せそうな容姿の薄幸の女・幸江は心底惚れている。

この2人を軸に、物音が筒抜けの壁の薄い安アパートの「隣のおばちゃん」や、「あさひ屋」のマスター、イサオの子分のタロー、幸江の父・家康(すごいネーミングだ……)など一癖あるキャラクターたちが絡んで、物語は進む。

綱渡りのような離れ業 

「物語」と言っても、本作は4コマ漫画なのでストーリー漫画のように、話の筋が綺麗に流れるわけではない。『週刊宝石』に掲載された時点では、『自虐の詩』は「幸江・イサオ」以外の物語もとりまぜた連載だったようだ。

作品の前半はひたすら「不幸を引き寄せる幸江」をネタにしたギャグが続く。オチの多くは、『自虐の詩』名物のちゃぶ台返しだ。イサオの悪癖のちゃぶ台返しは、徐々に他のキャラクターもぶちかます定番ネタになっていく。

「ちゃぶ台返しモノ」のあたりは、ネタは練られてはいるものの、はっきり言ってしょうもないギャグ漫画でしかない。だが、そのしょうもない4コマ漫画が後半、ドラマチックな「泣ける漫画」に豹変する。

幸江の悲惨な子供時代の回想シーンが増えるにつれて作品のストーリー性が高まり、中学の同級生の「熊本さん」の登場、イサオとの出会いのあたりから読者はグイグイと引き込まれ、ネタバレになるので詳細は書けないのだが、最後は内田が言うところの「もうだめ」という境地に持っていかれる。

ジェットコースターにたとえれば、前半のくだらなさでカタカタと位置エネルギーを稼ぎ、そこから一挙に急カーブあり、ループありの波乱の展開が待っている。

さらにこの作品が凄いのは、この怒涛の後半部分でも、ただの「お涙頂戴」には走らず、作者・業田が「ギャク4コマ」の常道をはみ出さないで、各話にきっちりオチをつけて笑いを取ってくることだ。笑いと涙を行き来するバランス感覚は、まさに綱渡りのような離れ業としか言いようがない。

小気味よいリズム感

未見なのに評価を下すのはフェアではないが、私が「映画では再現不可能だろう」と感じるのは、この離れ業がマンガという表現手段、それも4コマギャグ漫画という縛りのきついジャンルだからこそ、可能なものだと考えるからだ。

「ストーリー性が強い4コマ漫画」には、ちょっと思いつくだけで『ぼのぼの』(いがらしみきお)や『あずまんが大王』(あずまきよひこ)など、マンガ史に名を残すであろう作品があり、特異な手法ではない。むしろ、いわゆる「日常系」などを含めて定着したジャンルになっていると言っていいだろう。

これは、4コマ漫画の特性がある種のストーリー展開において有効なツールになりうるからだろう。4コマ漫画は、通常のマンガの演出の肝である見開きや「コマ割り」が使えないという制約を背負っている半面、「4コマで一区切り」という縛りが作品の進行と読者の読むペースに自然なリズムをもたらす強みを持つ。

『自虐の詩』でも、前半のギャグ主体の部分はもちろんのこと、後半部分でもこの小気味好いリズム感は大きな武器になっている。ストーリー漫画なら1話分に相当するエピソードが、4コマあるいは8コマ単位の怒涛のリズムで畳みかけられる。

「均等なコマ割り」という制約を逆手にとった名場面もある。「熊本さんのロングショット」と言えば、ピンとくる方がいるかもしれないあるシーンは、見開きや大ゴマではないからこそ、胸に迫る描写になっている。私は毎回、ここで「もうだめ」となってしまう。

なお、正確に言えば、本作には半ページの大ゴマを含む「5コマ漫画」が数本置きに挿入される。前半はこの「大ゴマ」に特に存在感はない。だが、クライマックスに入ってからの数枚は、この「大ゴマ」の1枚絵が素晴らしい効果を上げている。

再読するたび出る「味」

そして、『自虐の詩』を名作たらしめているのは、こうした「4コマ漫画マンガならでは」の巧みな作劇術を用いながらも、ストーリーテリングではテクニックに走らず、真正面から「人間」を描いている姿勢だ。

未読の方々のためにこれ以上、余計なことは書きたくない。「まずは黙って読んでくれ」としか言えない。あえて野暮な解説をするなら、優しさと残酷さ、勤勉と怠惰、決心と迷いなどなど相反するものが同居する、どうしようもない人間の本性と、絶望と救い、幸と不幸が綾なす人生のタペストリーが、下手な小説など及びもつかない深みをもって語られる。いや、やはり、こんな言葉は野暮だ。とにかく読んでほしい。

蛇足ながら、この作品の連載期間が1985年から1990年までで、『BSマンガ夜話』に取り上げられ、映画化につながるブームのきっかけとなったのが2004年だった、という事実が個人的には非常に興味深い。日本がバブルの絶頂に駆け上がる時代に貧困をテーマにした作品が描かれ、「失われた20年」のボトムに近い時期に「再発見」されたわけだ。このタイムラグは、作者・業田の持つ普遍性と先見性、日本社会の価値観の変遷を映し出しているように思える。

竹書房の文庫版なら上下巻でわずか1200円ちょい、マンガを読みなれた人なら1時間もあれば読み通せてしまうコンパクトな作品だ。しかも、歳を重ねて再読するたび「味」が出る。手元に置いておいて損はないと自信をもって保証する(高井浩章)。

(2019年2月15日フォーサイトより転載)