習近平の後継者に内定したとされる陳敏爾をめぐって

陳敏爾とは一体どのような人物であろうか。

ここ数ヶ月、ポスト習近平をめぐって、報道各社のスクープ合戦が行なわれている。

実に様々なスクープが飛び交っているが、唯一共通している点は、川村範行氏も指摘しているように、ポスト習近平が習近平だということである。

つまり、習近平は5年後の二期目の終了時点で、前任者の胡錦涛のように、規定に従って、あっさり引退する気などさらさらないということである。

習近平は果たして、三期目も名実ともに最高指導者として君臨するのだろうか。

それとも名は他人に譲りつつも、実を取って、事実上の最高指導者として「院政」を敷くのだろうか。

この問いに対する答えは、各社によって異なっている。

仮に、習近平が後者を選択した場合、鍵となるのは、彼の意向を受けて動く名目上の最高指導者が誰になるのかということだろう。

その点については、毎日新聞がいち早く陳敏爾の名を挙げている(828日付け)。

陳敏爾は、つい最近まで内外のチャイナ・ウォッチャーから、ポスト習近平の候補者として全くと言ってよいほど注目されてこなかった。

まさにダークホース的な存在である。

陳敏爾とは一体どのような人物であろうか。

略歴を一瞥することにしよう。

陳敏爾は1960年に浙江省紹興市に属する諸曁(しょき)市、すなわち百均グッズの仕入れ先として有名な義烏市の隣の市で誕生した。

紹興師範専科学校中国文学部を卒業後、地元の紹興県や寧波市で様々な職責に就いた。

習近平が浙江省のトップに就任した2002年には、同省の宣伝部長の要職に就いていた。

同省副省長を経て、習近平の最高指導者就任後、貴州省のトップに栄転を果たし、さらに今年の7月には失脚した孫政才の後任として、重慶市のトップに着任している。

陳敏爾の経歴を見て驚くのは、50歳を過ぎて貴州省に赴任するまで、ずっと生まれ故郷の浙江省内に留まっていたことである。

これは歴代の中国共産党のトップの経歴としては、異例中の異例であると言える。

歴代のトップは若い頃から実に色々な地方を行き来している。

多種多様な地域を抱える中国を統治するに当たって、トップには各地の実情に通じていることが、何よりも求められているが、陳敏爾にはそれが欠けていると言ってよいだろう。

また、江沢民以降の歴代のトップの学歴は、上海交通大学(江沢民)、清華大学(胡錦涛と習近平)といういずれも一流大学の卒業である。

一方、陳敏爾の学歴は、紹興師範専科学校の卒業であるが、日本で言えば短大や専門学校の卒業と同レベルである。

こうした点でも、トップとしては異例と言えよう。

陳敏爾が習近平の側近中の側近になるきっかけは、周知のように、後に『之江新語』という書籍に収録されるコラムを習が執筆するに当たって、陳が強力にサポートしたことである。

習近平は陳敏爾の文学的素養を高く評価していたということである。

ここで思い出されるのは、習近平が20代末から30代前半にかけて河北省正定県に赴任していた当時、当地在住のアマチュア作家・賈大山と親しく交流していたことである。

習近平は、賈大山が死去した際には追悼文までしたためている。

習近平は文学的素養のある人物がいたくお気に入りのようである。

陳敏爾の経歴、並びに上記のエピソードだけを見ると、陳は、文学的素養と上司に取り入る才能以外に、とりたてて優れた資質などもちあわせていないようである。

生まれ故郷とその近辺以外の地域の実情には疎い井の中の蛙、まさに典型的な地方止まりの指導者のようである。

また、からこそ、習近平の「院政」を支える名目上の最高指導者としては、打ってつけの人物だと言えるのかもしれない。

しかし、俗に文は人なりと言うが、筆者が陳敏爾の若い頃の文章(「報道工作の十の関係について語る」)を一読した印象では、陳はなかなか気骨のある青年だったようである。

陳敏爾はその文章において、紹興県の宣伝部長としての立場から、胡耀邦と趙紫陽が推し進めていた政治改革の一環としての報道改革を敢然と擁護していたのである。

ちなみに報道改革とは、毛沢東時代の報道が世論への宣伝工作一色だったのを反省して、世論への宣伝工作を主としながらも、党・政府の要職者などの腐敗に対して目を光らせる、すなわち世論による監督工作をも行なうというものである。

仮に、その文章が19896月の天安門事件以前に発表されたものであれば、さほど驚くには当たらないだろう。

しかしその文章は、1990年という政治的に非常にセンシティブな時期に発表されたものなのである。

当時は、天安門事件の余波で、趙紫陽をはじめとする改革派が失脚するなどして力を失う一方で、陳雲を中心とする保守派が力を得て、政治改革のみならず、経済面での改革開放に対しても見直しを進めるという時期であった。

鄧小平が南巡講話を行ない、経済面での改革開放を再び軌道に乗せて、保守派の力を削ぐに至るのは、1992年以降のことである。

当時、陳敏爾のような小役人が失脚や左遷を免れ、出世を遂げるためには、どのような政治的態度をとるべきだと一般には考えられていたであろうか。

民主化、すなわち「ブルジョア自由化」を非難するのは当然であるが、陳雲のみならず、鄧小平でさえ忌避するに至った胡耀邦と趙紫陽の政治改革から距離を置くことが何よりも肝要だったと言えるだろう。

実際、陳敏爾も指摘するように、当時、紹興県などの宣伝部の関係者の多くが、ブルジョア自由化が報道改革によってもたらされたと見なして、報道改革から距離を置くようになっていた。

こうした周囲の状勢を目の当たりにしても、若干30歳の陳敏爾は、臆することなく「我々のここ数年の報道改革には成果があり、必要性があったということを認めるべきだ」と主張している。

すなわち失脚した胡耀邦と趙紫陽が着手しようとした報道改革を、今後も推進すべきだと主張したのである。

若き日の陳敏爾は、同世代の多くの中国人のように、民主化運動にこそ合流しなかったものの、胡耀邦と趙紫陽が推し進めようとした政治改革に熱い期待を寄せており、天安門事件の後にも改革への情熱を失わなかったと言えそうである。

果たして今日においても、陳敏爾はひそかに報道改革への情熱を抱き続け、実行するチャンスを慎重にうかがっているのだろうか。

それとも、陳敏爾は出世を重ねる過程で、特に習近平の知遇を得てからは、報道改革への情熱をすっかり失ってしまったのだろうか。

仮に前者であれば、たとえ習近平の「院政」の下であっても、陳敏爾は、『南方週末』などの報道機関への締め付けを多少なりとも緩和しようと試みるかもしれない。

周知のように、昨今、習近平政権は、報道改革に逆行するかのように、これまで積極的に党・政府の要職者などの腐敗を暴露して、世論による監督工作を担ってきた『南方週末』などの報道機関に対して締め付けを強化してきた。

陳敏爾の今後の動向が注目される所以である。

*拙文は9月16日に日中関係学会東海支部で行なった講演「『核心』としての習近平についての歴史的考察」の概要であり、同学会ホームページより転載したものである。