暮らした国、7カ国。どこでも「日本人」代表だった自分が、帰国後に直面したギャップとは

中東・欧州・北米・南米の現地校やアメリカンスクールで、そこにいる「日本人」といえば、私くらいであった。
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「君のネクタイいいね」。就活の時に面接官に言われたこの言葉は素直に嬉しかった。リクルート・スーツという制服を設けることで身だしなみではなく、中身で判断・採用するということだろうか。それにしても服装も個人を表す大事な要素だ。せめてもと思い、ネクタイは唯一の個性表現として拘っていただけに、面接官の真意は別として嬉しかった。

海外7ヵ国で過ごし、日本での教育は、大学に入るまでは小学校2年間のみと、日本という国は身近でありながら遠い国であった。というのも中東・欧州・北米・南米の地域の現地校やアメリカンスクールへ通ったが、そこにいる「日本人」といえば、私くらいであった。

このため、私の行動は「日本人」のものと周囲に思われ、私もそう意識するようになっていた。外交官だった父の影響や、毎週末通っていた補習校の影響もあったのかもしれない。その「日本人」とはなんであろうか。帰国してから8年程経った今、自分の経験を振り返り考えていきたい。

陽気なイタリア・ローマから、小学2年で、フランス南部のマルセイユに引っ越し、過酷な生活がスタートした。

同じラテン文化であっても、当時のマルセイユでは、日本はあまり馴染みのない国だった。ちょうど同世代の間ではポケモンが流行りだした頃だったが、それが日本発祥ということは知られていなかった。

現地校に通っていたが、黄色人種であること、「中国人、中国人」とつり目のまねをされ、言葉を話せない自分をからかわれたのが悔しかった。フランスで小学校を過ごしたが、体罰こそなかったが、小学校では先生のことをMaitre(ご主人さま)、Maitresse(女主人さま)と呼ばせていた。

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大学卒業前に訪れたマルセイユ
筆者提供

フランス人の特徴は、自国の文化に誇りをもち、自分の主張を貫く人々である。一方で、特にアジア人を含めた有色人種に対する優位性(最近の変わりようには驚いているが)を感じているようにも思えた。

フランス語以外はわかってもわからないふりをされた。ちなみに、外国人が話す「フランス語」はフランス語ではない。後にフランス語圏のカナダのケベック州に住んでいたとき、フランス人は通訳をつけて観光していた。ケベックはフランス語圏だが、かなり特徴のある「フランス語」だ。

フランスの現地校は、ディクテーションやクラス全員の前で暗記した詩(poesie)を発表させるなど、教育熱心ではあった。外国人であろうと、国民教育(同化教育?)は手加減しなかった。悔しさと厳しい学校環境のおかげで、3年の南仏生活で習得したマルセイユ訛りのフランス語は、今でも役にたっている。

1年半暮らしたローマでは、日本人学校に通っていたので、負けたくない、強い「日本人」になりたいといった意識はフランスでの経験から芽生えたのだと思う。

フランス人コミュニティに馴染み、仲間ができ、3年が経過して「日本人」としての立場を確立した頃、父親が日本に転勤になった。帰国して国立の附属小学校の帰国子女学級に転入した。

5年生だったが、周りは中学受験の真っ只中だった。マルセイユでは日本語補習校に通っており、読み書きはできたが、受験とは無縁であった。帰国学級に入ったものの、その中でも新鮮な帰国子女だったのか、それまで自分が抱いていた「日本人」と、日本の「日本人」とのギャップに、ショックを受けた。学校の課外活動後の振り返りでは、「反省」をすることへの違和感を覚えた。

日本の次に暮らしたカナダでは、ほめる教育、多様性を尊重し、自主性を重んじていた。

カナダの中学校へ入学して間もなく「リーダーシップ・トリップ」という合宿があった。新しい仲間を知る事はもちろんだが、団体生活を通して協力の重要性を学び、リーダーシップを磨くことが目的であった。

学校には異なる宗教・文化的背景をもつカナダ人や様々な国籍(留学生や多重国籍)の生徒が通っていた。ポタージュではなくミネストローネのように、異質の隔たりを統合するのではなく、各人の味を活かして共存していた。

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ケベック市のウィンターカーニバルへ。外国人生徒の課外活動での一枚) 左から、確かチェコ、ブラジル、アメリカ?、韓国、日本。

まさに、多文化主義のカナダそのものを反映していた。故に、カナダでは相互理解を若い頃から身につけさせる必要性があるのだろう。これがグローバリゼーションがもたらす世界のように感じた。

この合宿を通じて、多民族で構成されているカナダだけに、自らの意見を主張しながらも、他者の意見を聞き、お互いを尊重しあう大切さを強く感じた。また、セッション終了後の振返りでは、各グループ内で、一人ひとり他のメンバーが貢献したこと、何が良かったかを指摘し、励まし(褒め)あうことが印象的であった。

各自に自信を持たせ、長所を伸ばし、風通しが良くなった結果、短所の改善も期待できるというものだ。メンバーの中で信頼関係が築かれ、仲間意識が生まれ、色々な意見が発せられる環境が整う。こういう環境でこそ、新しいアイディアがひらめくと考える。なお、この合宿で学んだ「Leader is not a position, it's action(リーダーとは地位ではなく、行動のことである)」、これこそがリーダーに不可欠な要素であり、この言葉は今でも肝に銘じている。

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カナダ・ケベックに住んでいた頃のユダヤ教信者の友人の誕生日会。ユダヤ教では13歳男子は成人にあたり、「バル・ミツバー」(Bar Mitzvah)という成人式を開いて盛大に祝う。このときのゲームの景品にはiPodや高級スピーカーがあった。

日本帰国前に暮らしたドミニカ共和国では、政治腐敗に加え、貧富の格差が激しく、国自らが国内問題を解決することは難しい。

民主主義の基本は、国民一人ひとりが主役であり、国を構成する。そして、国が透明性をもって情報を提供し、各自が意見(異見)を出し、少数意見を組み入れながら議論し、政策決定するものである。

制度の上では選挙を通じて民意を反映できることになっているが、多くのドミニカ人は、その権利を認識する機会すらないのだ。この原因は教育にあるのではないだろうか。

ドミニカでは、貧民街の子供たちに英語を教えるボランティア活動に取り組んだが、貴重なノートの余白が見えないくらい書き込みをする彼らの姿勢に、大いにやりがいを感じた。同時に、私たちが当然と思っている教育の機会均等が実現されていない社会的矛盾を痛感した。

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ドミニカで習っていた剣道の仲間と

海外生活が長かったが、2,3年おきに転々としていても、自らの心のよりどころ、すなわちアイデンティティーは「日本人」であった。このため将来は日本で学び、日本の大学へ進学したいと考えており、望み通り第一志望の大学へと入学した。

しかしそこでは馴染めなかった。

アルバイトは自らの経験を踏まえて帰国受験生の指導を主に行った。親しくなった友人は帰国子女、海外留学経験者や海外への興味がある学生たちであった。私のルーツや育ち方によるものだろう。このような仲間は一緒にいるうえで心から居心地がよかった。

実際に接する日本人は、自分の抱いていた「日本人」のイメージと違ったからだろうか、当時はとても時代劇が好きで水戸黄門や暴れん坊将軍を好んで鑑賞していた。わかりきった勧善懲悪のストーリーに加え、憧れていた「日本」がそこにあった(むろん、人による支配・仕組みについては違和感を感じたが)。

私にとっての「日本人」のイメージとは、時間に正確で、礼儀正しく、勤勉、真面目で、他人のため(世間を恐れて?)自己犠牲をする人々である。実際、帰国して財布や携帯等の落し物でも、自分の元に戻ってくることに驚いた。居酒屋ではボトルがキープされているし、カフェでPCをおいて席を離れられる。そんな安心・安全な社会は素晴らしい(自動販売機も安全な日本ならではだそうだ)。

また3.11の震災発生時は日本にいたが、真夜中になり漸く辿り着いた新宿駅の光景は感動した。そこにいた人々は、通り道を空けて整列し、座っていた。また、新宿駅まで歩く間、略奪などは起きず、むしろ飲み物の提供やトイレも整列しながら待つなど、支え合いの精神に感動した。どこへ行ってもサービス精神旺盛な日本は生活しやすい。

その一方で、朝の出勤時の日本人は、まるで人が違う。朝の駆け込み、押し込み乗車、出勤時の暗い顔。嫌な景色である。会社や取引先との人間関係、ステレオタイプで生きることの心苦しさ、我慢へのストレスが爆発するのは夜の飲み会だ。会社や仕事の飲み会は半ば強制参加で、その後の仲間内の飲み会では爆発する。そのせいか、夜の街は己の限度を超えた酔っ払いで溢れている。いつも世間を気にしている日本人はどこに行ったのか。そしてなぜいくつになっても日本の飲み会は大学時代と変わらないのか。

もしこういう発散によって過ごし易い「日本」や「日本人」が成りたっているのだとすれば、この循環はよいことなのだろうか。

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朝の通勤ラッシュ
時事通信

大学を卒業後、日本の大手企業に入社した。

この会社の組織は、前述した「日本人」の集まりであった。年功序列、自由な意見を言えない「空気」、紙社会、個人/自分を捨てるーーそうでないものは、辞めるか同期化/同調化が求められる。

日本の企業による個性略奪は就活から始まる。黒いカラスの群れのような、就活生。自分らしさを表わすひげや、アクセサリーの着用、多様な食生活や祈りの時間等宗教への理解がない。そういう現状を見ているだけに、秋葉原や原宿で個性的な個人をみると嬉しい。一人ひとり違う人間が自らの個性を発揮することは素晴らしい。違いを隠さず、違いを肯定的に捉え、自分らしさをどんどん発揮したら良いと思う。これも日本の素晴らしさであり文化である。

こう思う自分もステレオタイプな「日本人」なのだろうか。

一人ひとりが活躍できる環境とは、自ら考え、その人らしく働くことで柔軟な発想が生まれてくるのではないだろうか。意見を言える職場環境とは多様な背景をもつ個々人を尊重することではないだろうか。

いま働いている部署での職場環境に限れば、とても恵まれている。自分らしく振舞うことができ、意見を自由に言える。尊重されていることが実感できるからだ。このため、上司や先輩から業務に関することで厳しい指導は苦と思わず、真摯に受け止めることができる。

これは信頼関係があるからである。これは万人に共通する普遍的なものではないだろうか。私の会社のネガティブな面を述べたが、良さは、みながとにかく真面目であることだ。「ほうれんそう(報告連絡相談)」が徹底しており、上司指示や顧客依頼はすぐ対応する。熱い社員が多いと思われる。但し、手続き外や型はずれのことは受け入れ難い。この変革にいま全社を挙げて真剣に取り組んでいると思う。

このエッセイを書きながら気づいたのは、ステレオタイプの「日本人」の息苦しい点を改善することがまさに、働き方改革/職場環境の改善につながっているのではないか、ということだ。大手企業での不正やその隠ぺい、各種ハラスメントの根底に潜むもの、また、その弊害が日本社会で生じている理由は、「日本人」の中にあるのではないかと思う。

仕事の質や技術力、仕事へのこだわりは「日本人」の勤勉さによるもので、強みだと考えるものの、これからの世界市場で競争力を高め、日本の技術力を発揮するうえでは、イノベーション(=技術革新を行うためには発想と発信ができる環境)が不可欠だ。男女を問わず多様な国籍人種間でお互いに尊重できるような環境にしていくには「日本人」の在り方を考えていく必要があるような気がする。

「日本人」の良いところを活かしつつ、日本型の年功序列、終身雇用制度が変わろうとしている中、働き方を含め、多様な社員への尊重、個々の違いを認めることがこれまで以上に求められていると思う。これは日本社会全体で言えることではないだろうか。

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