【3.11東日本大震災】被災町民が始めた『災害FM』の終わりとこれから。存在意義と、求められる「明るい話題」の狭間で

「もはや私たちでなくとも出来る」。11年前、臨時災害放送局としてプレハブのスタジオで女川の被災町民らが有志で始めたラジオ番組が終わる。この言葉の真意をプロデューサーに聞いた。
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津波の被害を受けた女川港の朝焼け(2011年撮影)
時事通信社

東日本大震災から11年が経過した──。

2011年4月に臨時災害放送局『女川さいがいFM』として立ち上がって以来、形を変えながらも放送を続けてきた『OnagawaFM』のラジオ番組が2022年3月末で終わりを迎える。

被災した宮城県女川町の「いま」を伝え続けて11年、街の人々の心の拠り所になってきた番組はなぜ、このタイミングで終わるのか。立ち上げ当時の話を含め、プロデューサーに話を聞いた。

被災町民が始めたラジオ。プレハブのスタジオから全てが始まった

『OnagawaFM』は3月5日、Twitterでラジオ番組の終了を告知した。そこには「番組の役割を終えたと考え」と書かれていた。

人気アイドルグループ・ももいろクローバーZのメンバーも応援に駆けつけ、度々出演してきたことでも知られる番組。終了の知らせには「お疲れ様でした」「寂しいです」など著名人を含め様々な反応が寄せられた。女川町民が毎日出演するコーナーもあり、11年で約1200人が番組に出演した。

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ももいろクローバーZのメンバーも出演した(写真は2015年当時)
onagawaFM提供

『OnagawaFM』の前身となる『女川さいがいFM』は、臨時災害放送局として震災から約1ヶ月後の2011年4月21日に開局。被災した女川町民の有志と東京からのボランティアの手によって立ち上がった。

伝え手となる番組のパーソナリティも、すべて避難所での募集で集まった地元の人ばかり。まさに手作りの放送だった。

生活の再建に必要な情報を伝えることを目的に始まった番組は、いつしか復興に向かう人々を支える存在になった。「放送局」としては2016年3月末で閉局したが、番組はその後も宮城県のTBC東北放送や全国のコミュニティFMなどで続いた。

開局当時の放送で「予想外の反響があった」とプロデューサーの大嶋智博さんは振り返る。

もともとは町内で生き残った避難所や仮設住宅にいる数千人の地元の人に向けた放送でした。最初は支援物資で届いたラジオと乾電池を何千といる避難所の人たちに配るところからはじめました。ところが、避難所生活に耐えきれず、毎日かなりの数の人が町を離れてしまう。そこで、町の外からも聞けるようにとインターネットによる同時再送信(サイマルラジオ)もはじめました。そうしたら、これに予想外の反響があったんです。

町を離れた人だけでなく、全国から女川を応援してくださる方や災害ボランティアで訪れた方、さらには女川さいがいFMの活動をテレビや新聞などの報道で知った方まで、広く聞いて下さるようになったんです。

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2012年の臨時災害放送局「女川さいがいFM」の放送の様子
時事通信社

小さなプレハブ小屋に建てられたスタジオから始まった放送は、2015年には多い日には1日2万人がインターネットを経由して聴くようになっていた。だが、震災から5年が経つ頃、いくつかの困難に直面した。

主として全国からの寄付に頼っていた運営費が賄えなくなりました。また、初期から番組制作に携わったスタッフも、復興の進捗状況や家族や家庭や仕事の都合で町から出ていく者が増えた。スタッフ不足は深刻でした。町に残る者は別に家業などがある場合がほとんどで、ラジオにフルコミットできるスタッフがほとんどいませんでした。

加えて、「臨時の免許に基づいて活動する『災害FM』のままで、いつまでも放送を続けるわけにいかない」という根本的な問題もありました。

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プレハブで建てられた初代のスタジオ
onagawaFM提供

2016年3月末での放送終了を決めたが、それを発表したところ、放送の継続を望む声が番組や町にも多数寄せられた。そこで再考した結果、地元の放送局で週に1度、女川で制作した番組を放送するという形で継続することが決まったという。新たなスタートだった。

復興が進むにつれ求められた「明るい話題」と「伝え続けるべき事」とのバランスに葛藤。そしてコロナ禍...

形を変えて存続したオリジナルの番組はその後もリスナーから支持された。2021年4月からはパーソナリティに20代の若い世代を起用するなど未来を見据えたポジティブな変化もあった。だが、大嶋さんは「コロナ禍のこの2年は迷いながら番組を続けていた」と本音を語る。

震災から10年となった去年辞めるつもりでした。ですが、コロナ禍で中途半端に終わって欲しくないという町側からの引き留めもあり、1年ほど延長した形です。

女川町は震災10年を前に中心部の復興工事がほぼ完了しました。時間の経過とともに、町内からは「震災はもう『過去』のもの。明るく楽しい町としてのPRを全面に押し出してほしい」という声も大きくなっていきました。

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女川町で第1号となった災害公営住宅(2015年撮影)
時事通信社

一方で、女川町を応援してラジオを聞いて下さっている方々の中には、「全国で様々な災害が毎年のように起こる時代なので、その参考になるような話をしてほしい」という声も届いていました。また、町内からも「復興したといっても、それは駅前周辺の商業施設や学校・役場といったハード面の話で、実際に暮らす人たちの復興が完了したというわけではない。それ以外の面も取り上げてほしい」という意見もありました。

私たちとしては、両方大切に伝え続けていきたいと考えてきましたが、今の形ではそれを続けるのが難しい状況になっていました。

楽しい話題が毎週のように届けられるまで復興したことはとても幸せなことですが、元々、臨時災害放送局としてスタートし、困っている人たちのためにラジオを通じて女川町のことを公平に伝えていくメディアとして始まった経緯を考えると、それはもはや私たちでなくとも出来ることと感じるようになりました。そこで、このタイミングで終了させていただくことにしました。

「復興」の捉え方や考え方は人それぞれ異なり、女川の街の中でも意見は様々だ。時が進むにつれ求められるようになった「明るい話題」と、大切に伝え続けていくべき事とのバランス。その狭間で葛藤した末に番組は終了する運びとなった。

「特別なこと」はしていない。それでも強く感じた放送の意義

震災後、女川の人々に寄り添って11年。被災した町民有志で始めた「さいがいFM」の活動の意義を改めてどこに感じているのか。 

小さな町でしか聞けなかったはずのラジオを全国で聞ける状況になり、SNS等で話題になったことで、町民の数の何倍もの方々に聞いてもらえるようになりました。

特別なことをせず、震災後にこの町で生きる普通の人たちの声や話を発信するだけでも、全国の人に関心を持ってもらえるということを示すことが出来た。そこに意義を感じています。

女川町に限った話ではなく、いま地方は人口減少や過疎化という課題に直面しています。どこの地域も、あの手この手で話題作りをしていますが、私はその地域の魅力というのは「人」に尽きると思うのです。

私たちは災害FM時代から、ラジオを通じて、町民のインタビューコーナーを放送していました。このコーナーは全国のリスナーにも大変好評で、それを聞いて、「この人に会いたい」と町を訪ねてくる人が大勢いらっしゃいました。例えば、町の理髪店の女性の話を聞いて、その女性に髪を切ってもらいたいとわざわざ群馬県から通う客が現れたり、ラジオを聴いたことをきっかけに女川で職を見つけ、移住した人もいます。

地域の「人」の魅力を伝え続けたことで、文字通り、私たちは地域のメディアとしての役割を果たせたのではないかと思っています。

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町民が放送にゲストとして来るコーナーもあった
onagawaFM提供

また、地域の状況や意見や声を自分たちで外に発信するということにも意義を感じました。 

震災後も台風などの自然災害が発生した時には、私たちが町内で取材・撮影した音声や映像を放送局などに提供してニュース番組等で活用してもらいました。私たち自体はとても小さなメディアでも、必要に応じて様々なメディアと連携したり、ネットの力を借りることで大きな発信力を持つ。そんな事も証明できたのではないかと思います。

『女川さいがいFM』に関わった若者の中には、その後、被災地の放送局に就職して働く者もいる。

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東日本大震災から5年後の2016年。津波被害を受けたJR石巻線女川駅前に作られた「シーパルピア女川」
時事通信社

伝え続けてきた女川町の11年。街の変化に思うこと

被災地の中でも、「復興のトップランナー」と言われ続けてきた女川町。その街を拠点に情報発信を続けた側の目には、どのような変化が映っているのだろうか。

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復興事業によるかさ上げ造成工事が進んでいた女川町の中心部(2020年撮影)
時事通信社

11年経って、女川が新たな街になっていることを感じます。テレビなどで繰り返し取り上げられる駅前の商業地域。若い世代や移住者が積極的に参加して「新しいスタートが日本一生まれる町へ」をスローガンにここで起業したり、様々な試みも行われています。

ポジティブな変化だけではない。ある声をよく聞くようになった。

一方で、その新しい町を囲む形で高台に建てられた真新しい復興住宅に住んでいるはずの、もともと女川町に住んでいた人たちの姿は駅前ではあまり見かけません。

新型コロナウイルスのまん延というのも大きな理由ではあると思うのですが、多くの人が仮設住宅から次のステップである公営住宅に移り始めた2017年頃から町民からよく聞くようになった言葉があります。

「鉄の扉ができてしまった」

避難所や仮設時代は壁も薄く冬の寒さも辛かったけれど、災害公営住宅に移り住むと今度は静まりかえって、隣近所の気配すら感じない「鉄の扉の中に入れられたような気がする」という生の声です。街が新しくなる中で、コミュニティが再び分断してしまうのではと危惧しています。

もちろん町内でもそのことに対する問題意識はあり、町民同士の交流の場作りや高齢者を含むサークル活動のようなものを立ち上げるなど、様々な試みを始める動きもあります。

「新しい町作り」が話題になる一方で、「誰かが取り残されていないか」という事も常に気にかけていかなければと思っています。

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ドローンから見た女川町中心部
onagawaFM提供

番組が終わっても、出来ることはある

10年以上親しまれた番組がまもなく終わろうとしている。『OnagawaFM』はどのような形で、何を残すのか。今後はこれまでの経験を伝えていく活動に取り組んでいくという。

これまでも2016年には熊本、2018年には北海道で地震が発生した際に、それぞれお声がけいただき、現地へ赴いて支援活動を行ってきました。特に北海道では2局の災害FMの運営に関わり、私自身も3週間ほど北海道に出向いて、機材設置やその他の指導を行いました。

「臨時災害放送局」は機材などの支援体制は進む一方で、具体的にどのように放送を行えば良いのか、特に「誰が、どうやって」という部分についてはマニュアルや決まりがないのが現状です。 

今後も大きな災害が起こる可能性は全国どこでもあります。場所や状況によっては現地に放送局を作る必要があるかもしれない。そんな有事の際の初動を含め、これまでの経験を生かして、次に運用する人たちが困らないような支援ができたらと考えています。

番組は終わっても、地元の人々と共に11年で築き上げた経験とノウハウは決して無駄にならない。今後どこかで「まさか」が起こってしまったら、『OnagawaFM』の力が必要な時が来る。

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被災した女川港で立つ1人の男性の姿(2011年撮影)
Getty Images