あいちトリエンナーレ騒動、どう思った? ロンドンで留学生たちに聞いてみたら…

今後心に留めておきたい「対話における3つのポイント」が見つかった。
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オランダ人、日本人、ハンガリー人、ブラジル人の大学院生

留学のためにイギリスに渡ったばかりの私は、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」に関する情報をネットニュースやSNSで追いながら、少し焦りを感じていた。

「表現の自由」という非常に曖昧な概念に対して“対話不全”に陥っている人々の姿に、海外から見たステレオタイプ的な日本人像を見せつけられた気がしたのだ。それは、建設的なコミュニケーションが苦手で、なんとなく空気を読んで意見を言わない、渡英した日本人の私そのものだった。 

なぜ対話が成り立たないのか?

世界の若者はどのように対話しているのだろう?

そんな好奇心から、対話のための対話をしてみることにした。

学内のオンライン掲示板での呼びかけに協力したいと連絡をくれたのは、オランダ人、韓国人、日本人、ハンガリー人、ブラジル人の大学院生。英文学、社会人類学、フォトグラフィ、コンテンポラリミュージック、映画理論 等、皆専攻も様々だ。

「表現の不自由展」をきっかけに彼らと話し合ってみると、今後心に留めておきたい「対話における3つのポイント」が見つかった。

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少女像/あいちトリエンナーレの受付
時事通信社

是か非かで決められない問題に、どう向き合うか? 

現在私は、140もの国から学生が集うロンドン大学でマーケティングを専攻する大学院生だ。クラスメイトはみな、どんな些細なことでも自分の意見を交換し合う。 

「このトピックについてあなたはどう考えている?」

「その視点は新しいね。でも私はこういうスタンスを取っている」

こんな会話が日常的に繰り広げられていて、違う視点を持つからこそ弾む会話のキャッチボールをみんな楽しんでいるようだ。

「表現の自由」というテーマも、是か非かという正しい答えは存在しない。そこにあるのは、どう解釈するかのみだ。しかし、一連の流れを追っていると(イギリスにいたので、ネット経由の情報のみになってしまうこともあるが)答えのないこのテーマについての「対話」がないように思えたのだ。

「表現の自由」は、アーティストやジャーナリストといった表現者にのみ保障されているのではなく、アートやメディアを鑑賞する側にも同じように保障されている。私たち一人一人の問題だ。

自分にとっての「表現の自由」とは何か? 対話ができなければ権利をうまく行使することもできないのではないだろうか。

こうした問題意識に対して、手を挙げてくれた5人の留学生と、1対1での対話を、3週間にわたり実施した。

もともと友人であるオランダ人学生とハンガリー人学生以外とは、待ち合わせ場所で初めて顔を合わせることになっていたため、上手く話が続くだろうか、と少し不安もあったが、皆一様に「興味深く楽しい時間だった」とこの機会を喜んでもらうことができたようだ。大学内の食堂や近くのカフェ、相手の自宅などで、コーヒーやハーブティーや紅茶を片手にそれぞれ1時間以上語り合った。

計6時間以上の「対話」を通して、私が見つけた3つのポイントは以下だ。

①違和感に向き合う “Face your discomfort”

② 自分ごととして捉えすぎない “Don’t take it too personally”

③ アートを話の種にする “Talk about art”

 

①違和感に向き合う “Face your discomfort”

そもそも「対話」において不可欠なのは、異なる複数の意見と、互いの意見への興味関心だ。同じ意見同士や意見をそもそも持たない人との間には、対話は成り立たない。 

ノリ良くお互い調子を合わせながら話そうとしていると、何か引っ掛かることがあっても流してしまいがちだ。あの人は自分と考え方が違う人だから、とそっと心の中にしまいこんでいると、表面的な会話以上に発展することはない。違和感に目を向けることを恐れず、思考プロセスを理解しようとしてみると、自然と相手に問いかけをしたくなる。それが対話の始まりだと思う。

英文学を研究する日本人留学生とは、いかにアートに対するモヤモヤ感を言葉にしていくのかという話からはじまり、彼女の専門分野であるシェイクスピア文学にまで発展した。彼女曰く、シェイクスピア初心者には物語の展開が分かりやすい悲劇がオススメだと言う。一方で彼女が没頭するのはコメディー作品で、それは古典英語ならではのジョークを理解するのは容易ではなく、その背景にある文化や政治や歴史的背景を読み解いて初めて腑に落ちるからこそ、面白くて仕方がないのだそうだ。 

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日本人の留学生

人間同士のコミュニケーションだって同じだ。その場限りの会話ではなく、相手の一言をじっくり受け止めてみる。背景に何があるのか考えたり、知る努力をすると、もっと楽しみが広がることもある。

ふと感じた違和感を紐解いていくと、実は自分自身に対する違和感であったとわかることもある。対話とは、違和感の根本を相手と解消していく共同作業ともいえるのではないだろうか。

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少女像/展示が再開された「表現の不自由展・その後」
時事通信社

 ②自分ごととして捉えすぎない “Don’t take it too personally”

他国との歴史や政治になると、「日本人であることを誇りに思う」とか「日本人として恥ずかしい」とか、何か日本を背負って話さなければいけない風潮があるように思う。しかし一度責任感を脇に置いて、一つ一つの事象を観察してみると、今まで思いもつかなかった発見が出来ることもある。

今回、韓国人の学生と「表現の不自由展・その後」の話題をきっかけに2時間弱語り合った。どうして人々はこの時こういう行動に出たのだろうとか、その背景にはこんな考え方があるんだよねとか、自分たちの定説の一歩外に出て客観的に分析してみる。この対話において、私達はひとりの留学生同士以上の何者でもない。これまでの疑問を率直に打ち明け合い、一緒に謎解きをしているような、探究心をくすぐられる体験となった。

「お互い隣の国同士、似たような見た目をしていて、なんだか同じ思考回路を持っていると思ってしまうよね。でも、教育もメディアも文化も違う中で過ごして来て、片方の常識は、実はもう片方では思いもつかなかった視点だったりする。一人一人考え方や主張は違って当たり前だからこそ、客観的でいることが必要だね」。

彼女の言葉が印象深く心に残っている。

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韓国人の留学生

オランダ人の学生は、「私の信念は私のもの。たとえ家族や親しい友人であっても、それを曲げることは出来ないしその必要もない。もし相手が違う意見を持っていても、そういう考えもあるんだなって受け止めて、自分ごととして捉えないことが大切だよね」と言っていた。オランダの場合、現代アートよりも歴史的人物の銅像など、レガシーのあるものの方が議論の対象になりやすいという。例えば植民地政策に関わっていた人物の銅像を撤去しようと若者が声をあげても、自分の親やその上の世代にとっては、慣れ親しんだ街の風景であり、アイデンティティの一部にも等しく、冷静に話すことが難しいことがあるのだそうだ。そんな時も「私の信念は私のもの」という態度が大事なのだろうと感じた。

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オランダ人の留学生

対話は、コミュニケーションによる思考整理の手段みたいなものだ。だから、その結果自分の意見が変わることだってあるし、相手の考え方との違いがますます明確になることだってある。主語を大きくしすぎず、変化していく自分や相手を「それでも良い」と受け止めることこそ、対話を深める大きな鍵だと思う。

③アートを話の種にする “Talk about art” 

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ブラジル人の留学生

 

美術館やギャラリーで1枚のアート作品を前に、そのメッセージや自分なりの解釈について誰かと30分以上話したことのある人はどれくらいいるだろうか。

順路に従って人の波に飲まれ作品の解説を読むこともままならず、事前にポスターで見た目玉作品を無事に生で見届け、気がつけばミュージアムショップに投げ出されて、すごい人だったねなんて言いながらカフェでひと休みという経験、共感してくれる人も多いのではなかろうか。

“The death of the author (作者の死)”とは、フランスの哲学者ロラン・バルトにより提唱された、芸術作品の解釈は鑑賞者側に委ねられているという考え方である。作者が何を想い伝えたいと考えていても、作品自体をどう捉えるかは読み手側の自由で、メッセージはひとつではないし、正解も不正解もない。

コンテンポラリミュージック専攻のブラジル人学生は、「アート作品について、美術史に詳しい人やアーティストだけしか語っちゃいけない訳じゃない。友達と美術館に行った後は、心理学でも経済でも何でも良いから、自分の詳しい分野にリンクさせて話してるかな」と語っていた。 

ハンガリーで先日まで開催されていたパブリックアート展『ARC exhibition』では、歴史的トラウマとトラウマを負わされた社会的少数者とを反映したアート作品が、何者かによって火を付けられるという事件があったそうだ。しかしその作品は、厳重警備の上でその後も展示が続けられたという。

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ArcMagazin Facebookより

 

フォトグラフィ専攻のハンガリー人学生とは、この絵をきっかけに、パブリックアートと(美術館のように)閉ざされた場でのアートは区別されるべきかどうか、アートによる政治的主張はどうあるべきかという話に発展し、ハンガリーの歴史的背景や友人である彼自身の価値観についてより深く知ることが出来た。

答えのないアートだからこそ、対話の種は無限にあるし、一つの答えを追求するものではないことこそが対話の醍醐味だ。

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ハンガリー人の留学生

以上が、私が各国の学生達との対話を通じて見つけた「対話における3つのポイント」だ。

ちなみに、今私がオススメする対話の題材と言えば、映画『JOKER』だ。高い期待と裏腹に正直あまり入り込めなかった私は、今までなら「自分向きじゃなかったな」で済ませていたと思う。しかし、一緒に観ていたロシア人の友人に鑑賞後のもやもやとした気持ちを伝えてみたところ、意外な“対話”に発展した。

今また違う視点で、もう一度観に行こうと思っている。賛否両論、自分と違う感想の人を見つけたら、ぜひ力を合わせて違和感の謎解きをしてみてほしい。

(編集: 南 麻理江 @scmariesc

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